|
株式会社青林堂(せいりんどう)は、東京都渋谷区に本社を置く出版社である〔高野慎三『つげ義春1968』(2002年 筑摩書房)〕。日本のサブカルチャーの中心的存在として数多くの異才・鬼才を輩出、漫画史を語る上でも極めて重要な出版社である。 1962年に長井勝一が創業。当初は貸本漫画を中心に出版していたが、1964年から白土三平の協力のもと、日本初のオルタナティブ・コミック誌『月刊漫画ガロ』を創刊。以来、サブカルチャーの総本山として長きに渡り極北に位置する。 現代表取締役は大和堂の蟹江幹彦。 1997年夏に分裂した青林工藝舎とは資本等の関係は一切ない。 == 歴史 == === ガロ時代 === 初代編集長の長井勝一と漫画家の白土三平が共同で漫画雑誌『月刊漫画ガロ』を創刊、全共闘時代の大学生に強く支持され一世を風靡した。 商業的なメジャー系出版社の漫画事業と対極のスタンスで、掲載作品の作品性を重視し、白土三平、水木しげる、つげ義春、滝田ゆう、つげ忠男(義春の実弟)、鈴木翁二、楠勝平、永島慎二、林静一、勝又進、つりたくにこ、佐々木マキ、花輪和一、安部慎一、池上遼一、古川益三、蛭子能収、根本敬、山野一、渡辺和博、内田春菊、泉昌之、みうらじゅん、ねこぢる、山田花子、松井雪子、友沢ミミヨ、花くまゆうさく、福満しげゆきなど、「ガロ系作家」と称される一群の漫画作家に表現の場を与え、日本漫画文化史上に一時代を築いた。 1960年代の『ガロ』は、白土三平の『カムイ伝』と水木しげるの『鬼太郎夜話』の2本柱でおよそ100ページを占め、残るページをつげ義春、滝田ゆう、つりたくにこ、永島慎二などがレギュラーとして作品を発表していた。新人発掘にも力を入れていた当時の青林堂には、毎日のように作品が郵送で届き、多いときには2日、最低でも3日に一人は作品を小脇に抱えた若者が訪れたという。当時の編集部では実質的に編集を任されていた高野慎三(権藤晋)と長井の二人で新人を発掘していった。高野は特に『ガロ』に発表された”既成のマンガのワクを乗り越え、新しいマンガの創造を”と謳った「白土テーゼ」を信奉し、つげ以降のマンガ表現に大いなる関心を寄せていた〔高野慎三『つげ義春1968』〕〔「航空ファン」を出版する文林堂はこの当時同じ住所に存在した。〕。 つげ義春が1970年の『やなぎ屋主人』完結を最後に休筆に入ったのに加えて1971年には白土の『カムイ伝』が終了、これと共に『ガロ』の売上は徐々に下降線をたどり、1980年代には、バブルで金余りの世相にありながら、神田神保町の明治大学裏手の材木店の倉庫の二階に間借りして細々と営業する経営難を経験する。この頃になると社員ですらまともに生活が出来ないほど経営が行き詰まり、原稿料も既に支払を停止せざるを得なくなっていた。 その一方で「『ガロ』でのデビュー=入選」に憧れる投稿者は依然多く、部数低迷期にあってもその中から数々の有望新人を発掘していった。新入社員も1名募集すると100名200名が簡単に集まったという。 多くの作家や読者の支援により低迷しながらも会社は存続したが、1990年代に入り創業者である長井勝一の高齢と経営難からPCソフト開発会社の株式会社ツァイトの経営者である山中潤が経営を引き継ぐ。 その後、『ねこぢるうどん』や『南くんの恋人』のヒットや映画のタイアップ企画などによる単行本の好調もあったが、経営は慢性的に厳しい状況が続き、親会社のツァイトがPCソフトのプラットフォームがMS-DOSからWindowsへと変わる時代の変化に乗り遅れ、経営が悪化。1997年外部より福井源が肩代わりをする形でツァイト社長に就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青林堂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|